続 著作者尊重の精神を・加戸守行(コピライト2006年1月号)

著作者尊重の精神を・加戸守行(コピライト2006年1月号) - 言いたい放題で紹介した記事について。
愛媛県知事加戸守行氏が、現行著作権法施行満35年を迎えた機に寄せたエッセイである。
詳細は、休み明けに図書館等で読んでいただきたいが、少し思うところを指摘したい。


まず、加戸氏はエッセイで、

 私にとっての著作権思想の原点といえるのは、40年前の著作権法全面改正作業に従事し始めて間もない頃、
著作権界の先達から「19世紀の英国では街頭のバイオリン弾きだって著作権使用料を払っていたんだよ」、
著作権制度は一国の文化水準を示すバロメーターである」と教示を受けたことである。そのこともあって、
法律構成上、著作権制度をいかに実効あらしめるかを強く意識したことを想定する。
 もっとも、現在私は、後者の言葉を「著作権制度は一国の人間尊重度を示すバロメーターである」と置き換えて用いている。
何となれば、文化を人間の精神的活動の発露だとすると、対外的に具現化された客観的な成果をもってその水準を推し量ることになるが、著作権そのものの基本的な考え方は、創作活動を行った者に対する尊敬の念に由来すべきであり、人間尊重こそがエッセンスと考えるからである。

と述べている。
しかし「後者の言葉を「著作権制度は一国の人間尊重度を示すバロメーターである」と置き換え」ることは妥当でないと考える。
「一国の文化水準を示すバロメーター」というのは、創作者と利用者のバランスがあっての「文化水準」である。
それに対して、「人間尊重度を示すバロメーター」というと、創作者にのみ視点をあてたものとなってしまっている。
創作活動は一人の力で成し遂げられるものではない。
人間の精神的活動の発露としての文化は決して一人の人間精神活動のみによって形成されるものではないのである。
それにもかかわらず、その人間尊重を強調することは、文化をゆがめることになるのではないだろうか。
まさに今日の著作権偏重主義の根幹をここに見い出すことができるように思うのである。
このことは決して著作権侵害していいということではない。
ただ、どのような場合に著作権侵害とするのかいう著作権制度が、
いかに創作者と利用者のバランスを図っているかこそが「文化水準を示」すものとして重要であるということなのである。


また、最後に次のように括っている。

 新春の初夢のような御託を並べさせていただいたが、人に対する思いやりを欠いた嫌な世相の中にあって、
著作権関係産業界だけでもせめて創作者を思いやり、その人権を尊重する社会であってほしい。
 現行著作権法施行35年にあたって、法策定に参加した一員としての心からなる願いである。

この創作者の人権尊重が人格権の尊重なのか、財産権の尊重なのかで意味合いも異なるように思うが、
筆者も産業界が特に著作者の財産権を尊重すべきということについては否定しない。
経済活動を営む以上、財産権たる著作権の所有者たる著作者を尊重すべきは当然であって、
多少利用に面倒があっても、それは負うべき負担のように思う。
ただ、一方で著作権特許権などの産業財産権とは異なり、経済活動以外においても利用される類いのものである。
非営利的な創作活動についてまで権利を及ぼすことが、そもそも文化の発展に妥当なのか、
むしろ(現行法のもとにあっては)、創作者が利用者を思いやる場面が必要ではないかとも思えてくるのである。


著作権法施行35年を迎えた今、過去にないほどの著作権意識が高まりが生じている。
しかし、今までルーズだったからこそ文化が成り立っていた点があることを看過してはならない。
権利保護は当然重要だが、どのような場合に保護すべき権利があるのかということを今一度考えるべき時であるように思う。