ネット社会の問題点〜筆者の経験より〜


序 ある出来事
かつて私のとある私の管理するサイトに「意見感想を下さい」という旨の書き込みがあった。
そこで、私はその人のところに書き込みをすることにした。
その人のサイトを見ていると、「抑鬱神経症、PTSD」で、「法律家をめざしている」とあった。
抑鬱神経症、PTSD」という部分は気にはなった。
だが、私は「その人自身が」私に意見を求め、自分が「法律家を目指している」といっていることから、
批判的な意見(議論)をもちかけた。当然のなりゆきだと思っている。
しかし、「抑鬱神経症、PTSD」であるから批判に耐えれないという。
さらには、そのことを推知してほしかったとまで言うのである。
お願いだから、議論しないで、他の人も見ているし、などとおっしゃるのである。
確かに、「他の人もみている」というのは私も認識していたし、
当の管理人が議論を望まない意が明確になり、「配慮」を求めてきたので、
一切の議論をやめる旨、書き込み、実際そうした。
しかし、その後、自分から意見を求めたのに反対的意見、議論を拒んだことに対する私へのお詫びの言葉はなかった。
勝手だと言うことは認識していたようではあるが、この点について私は不快になった。


一 抑鬱神経症とホームページ
私には、奇怪な行動に思えたので、抑鬱神経症、PTSDについて、詳しい人にきいてみた。
ホームページを作り、そこで自分は抑鬱神経症やらPTSDだと言い切っているような場合、
自分がそのような病気で病んでいる事を周囲に知らせることによって、
周囲からの助けや励まし、同情を求めていると思われる、ということだそうだ。
そういえば、少なくとも掲示板の趣旨は、「助けや励まし」であると言った。


二 利点と欠点
もちろん、知らない人、しかも同じような境遇にある人と簡単に知り合えるという意味で
ネットはとても便利なツールである。それが精神衛生に資することがあろう。
しかし、それが公開の場である場合、一方で誰でも訪問してくるのである。
それが、私の事例のように、開設者から訪問を促した場合なおさらである。
(その人が書き込まなかったら絶対に見ていないサイトである。
 今回のこのような問題提起ができたことはある意味でその誘いは有意義だったのが…)
ひっそりとしている場合でも、公開である限り悪意ある人が書き込む恐れがある。
こちらに悪意はなくても相手が悪意だと思ったり、
それがきっかけで、その人にとってかえってよくない方向に進むことであるのである。
(今でも私は配慮しただけで、謝罪すべきはその人だと思っている。
 ただこのことを直接言わないのがどうかというと疑問である。
 その人のためには言う方がいいのだろうが、私には判断できない。)


三 精神障害者とホームページ
その人のいう「健常者」であってもネットを巡るトラブルは後をたたない。
ホームページという公開の場を作成した以上、「精神障害者」だからすべて許される、
温かく見守ってもらえるわけではないし、それを免罪符に何をしてもいいとも思わない。
「無理解」ということばで片付くこととそうでないことがあるように思うのである。
精神障害者」の方にもネットを利用するということがどういうことなのか、
十分に注意していただきたいと思うのである。(リスクより安らぎを求めているのだろうか?)
決して使うなというわけではない。内輪でやっていても、公開である以上、悪意の第三者がいる可能性を理解し、
また、第三のサイトに書き込む場合、みんながみんな「理解」してくれるわけではないということを
最低限、理解するべきであろう。
最低限の社会マナーはもっていただきたいと思うのである。


四 精神障害者とそうでない人
そして、そうでない方、
もしそういう人から書き込みがあっても、彼彼女が望むような書き込みができない場合には、
もし、彼彼女が批判的なことを求めていると思えたとしても、書き込みしないことをお勧めする。
これは先に意見を求めた人にも言われたことでもある。
対象者1名の偏見かもしれないが、そのやさしさで貴方が不快な思いをする必要はない。
もちろん、それを許容する寛大なお気持ちがある方は、どうぞ。
なお、書き込みをするということ一般がトラブルを招きうることは言うまでもない。
しかし、こちらが「配慮」をしめしてあげないと解決しないところが一般と異なる。
もちろんもめることは可能だが、それは相手方の病気にとってはよくない筈である。


五 さいごに
ポルノサイトや暴力サイト、自殺サイトの問題点は指摘されるところである。
これは、ネットの本質的問題の一側面にすぎないのだろうが、見過ごされないように書いておきたい。
以上、ある抑鬱神経症の方とのやりとりで私が経験したことと、そのことからの一私見である。
私見が妥当性については議論の余地があろうが、
少なくとも、こういう経験をしたという(経験者の認識した)一事実があるということが伝われば幸いである。