日本国憲法と著作権(5)〜第4章 著作権と他の人権との調整〜

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第4章 著作権と他の人権との調整


第1節 著作権著作者人格権による表現の自由の制限


 ここまで著作者の権利の制約が憲法違反とならないかを検討してきた。このように、著作者の権利が人権として保障されているが、一方でこのことは、必然的にその著作物を利用する人の人権の制約ともなりうる。とくに表現の自由の制約として論じられているところである*1。すなわち、憲法第21条1項は「集会、結社及び言論、出版その他の一切の表現の自由は、これを保障する」と規定する。ここに「表現の自由」とは、人の内心における精神作用を、方法の如何を問わず、外部に公表する精神活動をいい、「芸術上の表現活動」もここにいう「表現の自由」に含まれるが*2*3著作権法が著作者に著作権及び著作者人格権を与えることによって、他者による著作物の利用やその態様に対するコントロールを認めていることが、その者の表現の自由を制約するものといえるのである*4。この点、著作権の保護対象は創作的表現であるため、表現を変更すれば著作権法上の問題はクリアされるが、その分説得力が減じられることも考えられる*5、との指摘もあり、表現を変更すればよいから表現の自由に配慮する必要はないということにはならない。
 では、著作者の権利と表現の自由の調整についてはどのように考えるべきであろうか。確かに、表現の自由といえども絶対無制約であるとはいえず、他人や社会との抵触の問題がある以上、制約の可能性は否定されない*6。しかし、表現の自由は国民の精神活動にとって重要な権利である。そして、精神的自由権が立憲民主主義とって必要不可欠なものであるのに対して、経済的自由権は一般にそれほどの緊要度をもたないとされており、後者への制約に比べ、前者への制約の合憲性はその優越的地位にゆえに厳格な基準によって判断される必要があるとされている*7。そうだとすれば、著作権法による表現の自由の制約の合憲性ついて、著作権という財産権との調和との関係においては前者の価値に重点をおき、一方、著作者人格権という人格権との調整については等価値的に、判断するべきように思われる。
 著作権表現の自由との調和を図った具体的な権利制限規定として「引用」があげられる。法第32条は、「公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない」と規定している。引用に際しては、出所明示義務がある(法第48条1号)。この点、判例は、「明瞭区分性」「主従関係」が必要であるという*8。かかる要件については、「公正な慣行に合致」から導く見解、「正当な範囲内」から導く見解、追加的に導く見解、文言全体から導く見解など学説上一致をみていない*9。しかし、そもそもこれら明文規定を欠く要件の妥当性が問題となる*10。また、パロディーとの関係においては、このほか翻案権や同一性保持権との関係も指摘されるところである*11。これらの要件の検討は、表現の自由との調整規定である引用要件の考察に重要なものであるが、それゆえ議論が少なからずなされており、本稿での詳細の検討は割愛するが、パロディーの場合、同一性保持権については「やむを得ない」の解釈を通じて表現の自由との調整を図ることができるが、本案にあたる場合、表現の自由が常に翻案権に劣後するというのは問題ではないか*12、という点だけ指摘しておきたい。
 次に、法第32条は「公表された著作物は」と規定しており、未公表の著作物を引用した場合には、一切の保護は認められておらず、表現の自由の観点からは、そのような状況は妥当かどうか疑問である*13、との指摘がある。引用要件として「公表された著作物」とされたのは、著作者人格権たる公表権との調和を図ったものであろう。しかしながら、一切例外がないというのはいいすぎであろう。たとえば、取材の結果入手した政治家の未公表の手記を引用することができないとなると、歴史の検証が困難となる可能性があることがあげられる*14。また、表現を変更して用いることは可能だが、すでに述べたように説得性の観点からは問題があるといえる。さらに、死者の人格権について法第60条は、「著作物を公衆に提供し、又は提示する者は、その著作物の著作者が存しなくなつた後においても、著作者が存しているとしたならばその著作者人格権の侵害となるべき行為をしてはならない。ただし、その行為の性質及び程度、社会的事情の変動その他によりその行為が当該著作者の意を害しないと認められる場合は、この限りでない」と規定している。そうだとすれば、著作者が死亡した著作物についてもすべて「公表された著作物」に限定するのは問題ではないだろうか。法自体も、著作権の制限規定が著作者人格権に影響を及ぼすものと解釈することを認めないが(法第50条)、著作者人格権著作権の制限規定に影響を及ぼす解釈することを否定しない。憲法論を持ち出す間でもなく、引用要件の合理的解釈として、著作者死亡後の著作物については「その行為の性質及び程度、社会的事情の変動その他によりその行為が当該著作者の意を害しないと認められる場合」として、「公表された著作物」に限定するのは妥当でないのはなかろうか。確かに、著作者の死後、保護期間が終了していれば端的に法第60条の問題となろうが、公表行為に一定の財産的利益を認めるにしても、一律に「公表された著作物」でなければならないかは疑問が残る。著作権保護期間の長期化傾向からすればなおさらであろう。
 なお時事の事件に関する報道のための利用として、法第41条は、「写真、映画、放送その他の方法によつて時事の事件を報道する場合には、当該事件を構成し、又は当該事件の過程において見られ、若しくは聞かれる著作物は、報道の目的上正当な範囲内において、複製し、及び当該事件の報道に伴つて利用することができる」と規定し、「公表された著作物」たる要件を設けていない。厳密にいえば政治家の未公表手記を歴史論文で発表するような場合は含まれないが、本条が報道目的という表現の自由から認められた規定であることに鑑みれば、本条を拡大解釈して認めるという解釈も可能ではないだろうか。ただしいずれにせよ、未公表物を公表することは、表現をしないという表現の自由の消極的作用にも関係することであるので、著作者の利益にも配慮が必要であろう。
 ところで、社会的評価を低下させる名誉毀損行為でさえ、違法性の成立については、刑法上(刑法第230条の2)及び民法上(民法709条、判例*15表現の自由との調和が図られている。そうだとすれば、引用やパロディーに際して、例外要件を厳格に解しているのは著しく均衡を欠くように思われるのである。このように例外規定が狭すぎ、しかも個別規定が制限列挙と解されるのでは、表現活動が萎縮され、違憲の疑いが強いとさえ思われる。このような表現活動に対する萎縮という観点からすれば、現行制限規定を広く解するか、もしくは一般的なフェアユース規定をおくことが要請されているといえよう。一般的な権利制限規定をおいた上で、それを具体化する個別的な規定や政策的な権利制限規定をおくことも可能であるし、それによって、利用者の予測可能性を確保することができる。限定列挙であっても、憲法上の合理的調和が図られているのなら問題はない。できるだけ具体的である方は、理解しやすいことは否定できない。しかしながら、限定列挙とすることで、本来利用可能な方法が違憲主張しない限りできない事態が生じていることは問題であろう*16
 この点、憲法学者から、著作権表現の自由を制約する側面について、ほとんど認識されていないようであるし、著作権保護には憲法の自由保障に照らして限界があることはほとんど認識されていない*17、との指摘がなされている。確かに、そのような指摘は否定できず、今後意識していくべきであろう*18。なお、引用や時事の事件の報道のための利用以外に表現の自由に配慮した規定としては、法第39条(時事問題に関する論説の転載等)、法第40条(政治上の演説等の利用)、がある。


第2節 著作権著作者人格権による表現の自由の保障


 ここまで、著作権表現の自由を制約する側面をみてきたが、著作権法の権利制限規定の存在が、著作権者の表現の自由に影響を与えるという側面もある。つまり、現行法上、裁判手続きにおける複製が認められているが(法第42条)、捜査機関が録画した報道テープを証拠提出することには報道の自由や取材の自由との関係で問題であるとの指摘がある*19。このような場合には、著作権によるコントロールを通じて利用を禁じるということも可能であろう。もちろん、真実発見のために捜査機関の録画、提出行為をすべて問題視することはできない。包括的に捜査機関を複製主体から外すことは困難ではあるし、このような規定が表現の自由に反するということもできないが、捜査機関との関係では制限規定を厳格に解することは、表現の自由の保障に資するものと思われる。
第3節 その他の人権と著作権著作者人格権
 現行法の権利制限規定を、表現の自由以外の憲法上の人権との調整という観点からみると、法第35、36条は、教育を受ける権利(憲法第26条)に資するという側面があろう。また、裁判手続等における利用は、裁判を受ける権利(憲法32条)や刑事被告人の権利(憲法第37条第1項)。また、公表権については情報公開請求権との関係で調整が図られている(法第18条第3項等)。

*1:松井『インターネットの憲法学』254頁など。

*2:最判昭和45年4月24日刑集24巻4号153頁参照。

*3:佐藤『憲法』513頁。

*4:森脇「発言する政府、設計する政府」142頁参照。

*5:森脇「発言する政府、設計する政府」145-146頁。

*6:佐藤『憲法』517頁参照。

*7:佐藤『憲法』404-405,517-518頁参照。

*8:最三小判昭和55年3月28日民集23巻11号244頁「パロディー事件」。

*9:上野「引用をめぐる要件論の再構成」312頁。

*10:上野「引用をめぐる要件論の再構成」307-332頁。

*11:中山「著作物の権利制限規定を巡る著作権言論の自由の衝突」1-17頁、森脇「発言する政府、設計する政府」142-145頁。

*12:翻案等についての第43条第2号は、引用につき、翻訳しか認めていない。

*13:松井『インターネットの憲法学』271頁参照。

*14:森脇「発言する政府、設計する政府」145頁。

*15:最一小判昭和41年6月23日民集20巻5号1118頁。

*16:田村『概説著作権法』198頁も同旨。

*17:松井『インターネットの憲法学』254頁。この点、いわゆる教科書ではないが、「引用に関しては社会的な慣行、実態があるからだというような見解が述べられているわけですけれども、やはり表現の自由との関係で考えなければならないだろうと思います。」との指摘はなされている(土肥「著作権の制限」15頁)。

*18:野口「デジタル時代の著作権制度と表現の自由(上)」20-21頁など。

*19:松井『マス・メディア法入門』208-209頁参照。