補償金の支払いで著作権者を尊重することになるのか?


補償金の支払いは漠然とした抽象的著作権者に対する金銭の支払いであるが、それが必ずしも使用した楽曲の権利者への支払いに充てられるわけではない。
このことは、あえていうまでもない補償金制度の問題ではある。
では、権利者の立場に立って、補償金負担が、本当に著作者がリスペクトされることになるのだろうか?
実は、単に著作権制度へのリスペクトであって、著作者自身はむしろ蚊帳の外になっているのではないだろうか。
著作権法のもとにおいて、誰に支払ってるのかわからない金員の支払いが行われることが、個々の権利者の権利の尊重となるのか、
こういったことを考えると、補償金は本当に権利者のための制度なのか?ということにも疑問が生じ、
補償金制度はあくまでも過渡的な制度であり、縮小廃止すべき、という意見は、理由はともかく結論としては、妥当なものともいえるのである。


一億歩譲って補償金制度を残すとしても、

 具体的にアーティストにはどれぐらい補償金が還元されているのだろうか。
 上野氏は「具体的なアーティスト名は公表できないが…」としながらも

JASRAC以外の著作権管理団体やインディーズ系などにも配分されている。ただ、どの団体にも所属していない人にはもちろん配布されないが…」(上野氏)。
※「補償金はアーティストにいくら、どう渡る・管理団体に聞く」(NIKKEI NET)2頁目より
 http://it.nikkei.co.jp/internet/news/index.aspx?n=MMITbf000003072008&cp=2
 文中上野氏は、私的録音補償金管理協会(SARAH)の上野博常任理事のこと。

という現状システムをみても、権利者の尊重はみじんも感じられない。
また配分についても、

 問題は、このやり方はあくまでサンプル調査にすぎず、複製されたコンテンツを完全に把握することができないため、補償金を正当に受けられないアーティストが出てきてしまうことだ。例えばマイナーなアーティストのファンが払った補償金も、仕組み上はメジャーなアーティストに多く流れてしまうことになる。
 このような仕組み上のギャップを埋めるために、補償金の2割を「共通目的基金」として管理団体がプールし、幅広くアーティストの創作活動を支援するために使うことになっている。著作権への理解を促すセミナーや、子供コンサートなど音楽活動を支援するイベントなどへ助成しているという。
※同前

となっており、多少のズレは仕方ないとしても、「補償金を正当に受けられないアーティストが出てきてしまう」こともどうなのか。
「共通目的基金」といっても、「補償金を正当に受けられないアーティスト」の意によって活用されているものではなく、所詮正当化にすぎないのである。
結局、政治的に補償金制度をひっぱってきた著作権団体は自分たちを中心とした配分に終始しており、個々の権利者は置き去りになっていまっているのである。
こういった運用しかできないこと自体、権利者の側からしても、制度的な限界は否定できないのである。


このようなことを考えるとき、補償金制度は本当に「著作権者」の著作権の保護(経済的及び理念的に)になるのか?という疑問も生じてくる。
やはり補償金制度はいらないのである。では、どうすべきか?廃止すればいいだけのことである。


なお、筆者は、著作権に関して、メーカーが巻き込まれているのはいまいち理解できない。
権利者は、メーカーの機器を消費者の伝達道具とできているわけで、間違っても権利者を害するものではなく、
権利者は、そのお陰で、利益を得ている訳で(CDも映画もすべて機器に依存している、いつも生演奏、生演劇ではないでしょ?)、
物の製造業者が、問屋が依頼した消費者への移転に必要な運送業者に対し、俺の物運んで利益をあげやがって、といっているようなものです。
運んでくれる人がいるから、その商品は売れ、儲かるわけですよ。
経済的な実体を理解すれば、メーカーを悪者扱いするなんてもってのほかでしょう。
メーカーと権利者はもちつもたれつなんだよ、ということに気づいてない時点で経済的利益損失云々する資格はなく、
おとなしく著作物を最大限活用する方法でも考えとけよ、と思うわけです。