表現の自由vs教育的配慮?

毎日かあさん」論争、表現の自由か教育的配慮か
 文化庁メディア芸術祭賞を受賞した漫画「毎日かあさん」を巡り、作者の漫画家西原(さいばら)理恵子さん(40)と東京・武蔵野市の間で論争が起きている。
 西原さんの長男(8)が通う同市立小学校が、西原さんに「学校を作品の舞台にしないでほしい」と申し入れたためだ。
 「表現の自由への圧力」と抗議する西原さんに対し、市側も「正当な教育的配慮」と譲らない。双方が文書で主張を繰り返す事態となっており、9月2日の同市議会でも取り上げられる予定だ。
 西原さんは、「ぼくんち」「恨ミシュラン」などの作品や、放映中のNHK連続テレビ小説「ファイト」のタイトル画で知られる。
 「毎日かあさん」は、武蔵野市やその周辺を連想させる街を舞台に、西原さんの長男や同年代の子ども、母親を思わせる登場人物の日常をコミカルに描いており、2002年10月から毎日新聞で週1回連載中。連載をまとめた単行本も既に2巻が毎日新聞社から発行されている。昨年、文化庁メディア芸術祭賞、今年は手塚治虫文化賞を受けた。
 問題となったのは、授業参観の場面。主人公の母親が、落ち着きのないわが子を含む児童5人を「クラスの五大バカ」と表現し、ユーモアを交えつつ、子どもの成長を見守る内容だ。
 この場面が紙面に載った直後の昨年11月、長男の担任の女性教諭(40)が西原さんを学校に呼び出し、「迷惑している」「学校を描かないでほしい」と注文をつけた。
 西原さんは翌12月、毎日新聞社の担当者と同小学校に出向き、校長らに「保護者だからといって、編集者を通さず作者を直接呼びつけるのは非常識だ」と抗議。校長らは「学校に落ち度はない」と主張したという。
 西原さんは、父母の一部から「学校とトラブルを起こすならPTA活動に参加しないでほしい」と告げられたのを機に、今年6、7月、弁護士を通じて市側に「作品はあくまでフィクション」「公権力による表現の自由の侵害ではないか」などの文書を送った。これに対し、市側は、「他の児童や保護者への配慮をお願いした」「作品中に『武蔵野市』の固有名詞もあり、児童の人権に教育的配慮を求めることは当然」などと、8月までに2回、文書で回答した。
 西原さんは「フィクション作品の内容に介入するのは納得できない。子どもを学校に預けている立場上、作品を描くこと自体をやめろと言われたに等しい」と憤る。また、毎日新聞東京本社編集局は「毎日かあさんは西原さんの経験に基づいたフィクションで、内容については人権やプライバシーに十分配慮して掲載している。学校側には納得してもらったと認識している」としている。
 一方、同市教育委員会の南條和行・教育部長は「保護者を学校に呼ぶことは珍しくない。表現の自由を侵害してはいない。学校には不特定多数の児童がおり、配慮するのは当然だと思う」と話している。
(読売新聞) - 8月31日14時35分更新
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050831-00000106-yom-soci

まず、同市教育委員会の南條和行・教育部長の
表現の自由を侵害してはいない。学校には不特定多数の児童がおり、配慮するのは当然だと思う」
という言はある種の恐ろしさを感じる。
自らが市教育委員会という公権力の一端にいることを理解していない、
表現の自由が本来公権力からの不干渉であるということを理解していないものと言わざるを得ない。
公権力の担い手が、表現行為を理由に国民・市民を呼び出して、表現内容について何かを求める、という行為が、
表現の自由への干渉行為でなければいったいなんだというのだ?ということである。
しかも、教育部長は、表現行為が配慮するのは当然だ、といっているのだから、これほど恐ろしいことはないのである。
このことは、特定個人の権利侵害行為があると判断される場合であっても同様であって、
公権力が特定当事者に同調して、表現行為に介入するのこと許されるのか?という疑問が残るのである。
「保護者を学校に呼ぶことは珍しくない。」このことは、構わない。
しかし、表現行為者を呼び出すことを同列に考えていることは大いに問題がある行為なのである。


そもそも(今回は違うだろうが)フィクションの場合すら、名誉毀損、プライバシー侵害が生じるとされる。
それは、一般人がフィクションとノンフィクションを区別することなく、真実と判断してしまうからである。
そうだとすれば、ここで教育的に配慮するとすれば、
表現行為に介入するのではなく、フィクションの作品にどう接するか?ということではないだろうか?
武蔵野市教育委員会は、本来教育の問題として、そういうことを考えるべきであって、
表現行為に介入することではないのである。
それにもかからず、教育部長が上記のような発言を平気でしてしまっているのである。
個々の権利侵害は、表現行為だからといって許されるものではない。
しかし、固有名詞があるから、権利侵害が生じるというのは、いささか飛躍しすぎである。
漠然とした教育的配慮を主張するのであれば、まずフィクションはフィクションだということを教育すべきである。

毎日かあさん カニ母編

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毎日かあさん2 お入学編

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