小泉首相靖国参拝について

筆者の個人的見解としては、靖国神社に参拝するかどうかということは、
一次的には個人の思想良心の自由、信教の自由の範囲内のことであって、
それに対してどうこういうのはおかしいと考えている。
中国・韓国の批判は内政干渉という人もいるが、この場合内政というからには、
国内問題として、政教分離の問題がどうしてもでてきてしまうように思う。
「内“政”干渉だ」という反論は、中国・韓国の批判に対してえても、
政教分離という国内憲法問題を生じしめるのである。
そのような批判自体が靖国参拝が政治的であることを示しているのである。
筆者は、内閣総理大臣と記帳するかしないか、どんな参拝形式をとるのか、ということは、
まさに内閣総理大臣たる小泉純一郎個人の信念ですればいいと思っている。
内閣総理大臣は参拝すべきだとか、参拝すべきでないとかという議論はおかしい。
中国韓国に対しては、「貴国には、信教の自由、思想良心の自由も認められていないのか、
なんて人権意識のない国家だ」と言ってやればいいのである。
もっとも、内閣総理大臣はその参拝を政治パフォーマンスに用いることは避けるべきである。
そのことで、本来個人の宗教的行為であるはずの参拝が、政治行為化し、
内閣総理大臣の職務行為と判断されてしまうのである。


ただ、実際のところは、参拝すべきという人がおり、参拝すべきでないという人がいる。
この時点で靖国神社を参拝“する”“しない”ということが、
(本人の意思とかかわりなく)政治的になってしまっているように思うのである。
ここで注意すべきは、参拝するべきではない、と政治的に発言することもまた、
政教分離からは疑問であるということである。
政教分離は宗教との結びつきから距離をおくだけでなく、干渉圧迫からも距離をおくべきことを保障するものだからである。
したがって、内閣総理大臣の参拝にかかわる行動が政治的にならないように注意することを超えて、
参拝すべきでない、という議論はこれもまたおかしいと思うのである。
しかし現実をみるとそうはなりにくい。
ここまでくると、実は宗教問題ではなく、政治問題であって、政教分離云々ではなく、
まさに靖国参拝は世俗的な政治上のことがらなのではないかとも思えてくるのである。
靖国「神社」とはいうが、実は宗教とは非なるものということができるのかもしれない。
だからこそ、内政干渉と理解している人もいるのだろう。


いろいろな意見があるだろうし、ここで議論する気はないが、
私見をとどめておくならば、まわりがとやかく言うことはでわないし、
まわりがとやかく言って政治的にする事柄でもないように思うのである。
内閣総理大臣となった者が参拝する場合には、粛々とそれを行えばいいだけのように思うのである。
それについてまわりがとやかくいうべきことではない。
国会が非難するべき点としては、政治パフォーマンス化した場合に、
その点のみを問題視すればたりると思うのである。