日本国憲法と著作権(4)〜第3章 日本国憲法と著作者の権利の制限〜

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第3章 日本国憲法と著作者の権利の制限


第1節 著作者の権利の制限


 著作者の権利が憲法上の人権にあたるとしても、それは絶対無制約なものではない。内在的制約というにしろ、「公共の福祉」による制約というにしろ、制約は存在する。


第2節 著作権の制限


3−2−1 公共の福祉論


 著作権が「財産権」として憲法第29条1項により保障されるとしても、一切の制約を受けないということにはならず、財産権の内容は*1、「公共の福祉」による制限を受ける(憲法第29条2項)。この点、「公共の福祉」とはどのようなものであるかについては、憲法学上争いあるところではあるが、憲法第29条2項の「公共の福祉」には、内在的制約原理と外在的制約原理との二種類が含まれていると解される*2。もっとも、具体的な制約が「公共の福祉」による制約として許されるか否かの判断手法は必ずしも固定的ではない*3。この点判例は、「規制の目的、必要性、内容、その規制によって制限される財産権の種類、性質及び制限の程度等を比較衡量」する手法を用いており*4、財産権の制約については、立法裁量を重視して一般に広く合憲性を認めている。


3−2−2 権利制限規定


 著作権法著作権を制限するものとして、権利制限規定をおく。これら制限規定の趣旨は「(1)人間の行動の自由を過度に害することのないよう、著作権に与える影響が少ないと考えられる一定の行為についてのもの、(2)利用の性質上、禁止権を制限すべきである観点からのもの、(3)有体物の権利である所有権等衝突を緩和するためのもの、(4)著作物の利用を促進すべきという判断から設けられている制限や、教育、報道、さらには立法、行政、司法のような公益に鑑みてのもの」*5など様々であるが、いずれも著作者の保護と著作物の利用との合理的な調和を図るためのものであるから、財産権の制約という観点からは立法府の政策的な裁量判断が尊重され、規制目的との合理性を欠くことが明白である場合などに限り、当該「財産権」の制約が違憲になるというべきである。判例も比較的緩やかな基準によりその合憲性を審査している*6


3−2−3 著作権法第1条(著作権法の目的)


 著作権法第1条はその目的について「この法律は、著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする」と規定する。この点、本条の趣旨については、「著作者等の権利保護が第一義的な目的であるということによって、この法律が解釈されるということ」*7と説明される。確かに、そもそも著作権法が「著作権」の創設したこと自体が、文化の発展に寄与するための「権利の保護」であるといえ、著作権を定めた趣旨を没却するような法改正や解釈は許されないのは当然であって、その意味において、著作者の権利保護が第一義的なものといえる。しかし、本来著作権は、「『もって文化の発展に寄与すること目的』という大目的」*8を達成するために、著作者の権利を保障しようとするものであるから、その調和を図るための個々の規定について、著作者等の権利保護を第一義的に解釈することは妥当ではない。著作権を定めた趣旨を没却するような解釈そうでない限り、個々の権利制限規定の解釈に際して「権利保護」の観点から例外として限定的かつ厳格に解すべき理由はないのである。ここで強調されるべきなのは、「公正な利用」でも「権利の保護」でもなく*9、「文化の発展」という目的に合致しているかどうかということであって、「文化の発展に寄与する」ために、「権利の保護」と、「公正な利用」の調和のために例外を認めた趣旨から解決を図ることが重要だと思われる。
 ところで、アメリカ合衆国憲法憲法が直接インセンティブ論に拠って著作権を保障しているといえるが、著作権の目的規定に同様の趣旨を読み込むことができる。日本国憲法における個別的な財産権保障の法律依存的性格に鑑みれば、かかる目的条項は財産権を定める法自体が有するものであって、憲法上の保障する「財産権」に内在する憲法上の価値といえよう。この点、憲法制定時の旧法にはかかる目的規定は存しないが、かかる基本的精神は、旧法下から変更はないと解されるし*10、そもそもこのような精神は現在の「著作権」という概念を基礎付ける精神であるから、「著作権」に内在するものと考えて良いであろう。もっとも、どのようにして権利保護と「文化の発展」という目的とを調整するかは立法府の政策的判断によるところが大きく、立法裁量が尊重されるというべきである*11
 では他方、著作権に内在する「文化の発展」という目的については、憲法上どのように評価すべきであろうか。この点、すでに述べたように法解釈の指針とすることはもちろんであるが、かかる目的規定を維持したまま、これに明らかに反するような著作権法改正を行うことは、憲法の保障する「財産権」たる著作権に反するとして許されないというべきである。もっとも、「文化の発展に寄与する」という目的自体を削除することは憲法に違反しないと思われる*12。かかる場合には現在の「著作権」という概念を基礎付ける精神を廃するものであるから、それは、現在の「著作権」の廃止とともに、現在の著作者の権利を含む著作者にとって強固な新たな財産権の創設というべきであろう*13


3−2−4 フェアユース(公正利用)


 アメリカ合衆国著作権法第107条は一般的な権利制限規定としてフェアユース規定を設けている。これに対して、日本国の著作権法は一般的なフェアユース規定を設けておらず、また裁判例もかかるフェアユースの概念を認めてはいない。たとえば、「著作権法一条は、著作権法の目的につき、『これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作権者等の権利の保護を図り、もって文化の発展に寄与することを目的とする。』と定め、同法30条以下には、それぞれの立法趣旨に基づく、著作権の制限に関する規定が設けられているところ、これらの規定から直ちに、わが国においても、一般的に公正利用(フェアユース)の法理が認められるとするのは相当でなく、著作権に対する公正利用の制限は、著作権者の利益と公共の必要性という、対立する利害の調整の上に成立するものであるから、これが適用されるためには、その要件が明確に規定されていることが必要であると解するのが相当であって、かかる規定の存しないわが国の法制下においては、一般的な公正利用の法理を認めることはできない。」としている*14。つまり裁判例によれば、著作権が制限される場合について、権利制限規定列挙事由に限定し、逆にいえば、著作権は各制限規定に列挙される以外には限定されないことになる。
 しかし、著作権の制限を権利制限規定に列挙事由に限定するのは妥当であろうか。著作権法第1条との関係で主張される「フェア・ユース」の意味は必ずしも一義的ではないようであるが*15、少なくとも、「著作権が制限される場合について、権利制限規定列挙事由に限定するのは妥当でない」という意味でのフェアユースは認めるべきである。著作権は内在的に「文化の発展に寄与する」ために、「権利の保護」と「公正な利用」の調和が要請されている。「財産権の保護」よりも、「公正な利用による利益」を保護すべき要請が強い場合には、利用が許されるというべきである。この点、確かに法が個別具体的に規定している方が予測可能性を与える点で有用であって、その制約が政策的な趣旨のものであるならば、それ以上に財産権を制約して、利用を認める必要はないであろう。しかし、著作権が他の人権と衝突する場合にまで、立法府の判断を尊重するというのは、司法府の判断としては妥当ではないのであろうか。「フェア・ユース」というかどうかはともかく、憲法問題として、著作権の制限を権利制限規定に列挙事由に限定するべきではない。特に他の憲法上の人権との調整において著作権法を形式的に判断するのは妥当でないように思われる。


3−2−5 著作権の保護期間


 著作権は、保護期間においてのみ存続する(法第51条2項)。この点、保護期間の定めが財産権保障に反しないか問題となるが、そもそも法が権利として保障した財産権が存続期間のあるものなので、かかる制約が違憲になるとはいえない。しかしながら、法律を改正して、「遡及的に」「既存の」著作物の著作権の保護期間を短縮することは、法が定めた財産権を奪うことになり、財産権侵害が問題となろう。
 他方、保護期間の延長についてはどうか。たとえば、永久とすることも許されるのであろうか。確かに、アメリカ合衆国憲法が規定するような「一定期間」という限定は、目的条項にもない。しかし、インセンティヴ論を前提にすれば、「合理的な一定期間」と解すべきであろう。また、この点については、表現の自由との人権相互間の調整として問題になろう。さらに、保護期間の延長の法改正に際して、既存の著作物についても保護を認めるているが、インセンティブ論からは望ましいものとはいえないであろう。ただし、目的条項自体が改正された場合は、永久とすることも可能であろう。もっとも、この場合には著作権とは概念を異にする新たな財産権となることは前述のとおりである。


3−2−6 第29条第3項


 憲法29条3項は「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる」と規定する。そして、本条項により憲法上補償が必要であると解されるにもかかわらず補償に関する規定がない場合でも、右規定によって直接補償を請求できると解されている*16。そこで、著作権法上の権利制限が、私有財産を「公共のために用ひる」場合といえるのかが問題となる。
 ここに、「公共のために用ひる」とは、公用収用や公用制限に限られず、「公共の利益」も含めて広く解するのが通説・判例である*17。しかし、「公共のために用ひる」場合であれば常に補償が必要であると解されているわけではなく、その制限が、「特別の犠牲」であることを要すると解されている*18。そして、「特別の犠牲」にあたるかどうかという判断基準については争いがあるが、「財産権の剥奪または当該財産権の本来の効用の発揮をさまたげることとなるような侵害については、当然、補償を要」し、そ「の程度に至らない場合には、財産権の行使の制限と程度が、第一に、当該財産権の存在が社会的共同生活との調和を保ってゆくために必要とされるものである場合には社会的拘束の現れとして、補償は不要」と解せば*19、現行著作権法による制約は社会的拘束であって憲法上の補償は不要と解してよいであろう*20


第3節 著作者人格権の限界


 著作者人格権憲法第13条によって保障される一般的な人格権の具体化であるとしても、絶対無制約ということはできない。「公共の福祉」による制限を受け、他の憲法上の権利との調整も問題となる。
 この点、著作者人格権に対する制約については、著作権に対する制約より厳格に解すべきであろう。一般に財産権に対する制約は比較的緩やかに許容されるが、人格権に対する制約については厳格に判断すべきであるところ*21、財産権である著作権に対する制約が許されても、人格権制限は許されない場合があろう。その意味では、著作権制限規定が著作権者人格権に影響を及ぼすものではないないとする法第50条の規定は当然の規定といえよう。
 もっとも、どのような場合に著作者人格権が制約されるかという点については別途検討をすべきである。例えば、同一性保持権とは、「著作物やその題号を改変するか否か」についての著作者の決定権ことはすでに触れたが、どのような場合に「その意に反して」にあたるかは、具体的事情のもとで、ある程度客観的に考察されるべきであろう。著作物の利用者が、出版者の場合と引用者の場合では許容される範囲が異なるであろう。

*1:「財産権の内容」とは、権利者がそれぞれの財産権に依拠してなしうることの範囲・程度を指す(通説・判例)(佐藤『憲法』567頁参照。)。

*2:佐藤『憲法』401-405頁、567頁参照。

*3:佐藤『憲法』568-569頁参照。

*4:前掲最大判昭和62年4月22日。

*5:田村『著作権法概説』195-196頁、加戸『著作権法逐条講義』222頁参照。

*6:旧法下の判例ではあるが、前掲最大判昭和38年12月25日。

*7:加戸『著作権法逐条講義』14頁。

*8:加戸『著作権法逐条講義』13頁。

*9:この点、「公正な利用」と「権利の保護」との関係について、「、」の存在によって、立法者意思を解釈し、「権利の保護」の第一義的目的とする見解もあるが(斉藤『概説著作権法』13-14頁)、いずれにせよ「文化の発展」という大目的に反することはできない。著作権を保護するだけでは、「文化の発展に寄与する」といえない場合には、その保護は権利保障の目的の前に一定の譲歩を免れないというべきである。

*10:半田『著作権法概説』51頁参照。

*11:著作権法の権利制限が内在的制約ではあるが、警察目的ではなく客観的な判断は困難である。二分論が必ずしも妥当でない一面といえる。

*12:もっとも、文化の享受を妨げられない権利(文化享受権)などといった憲法上の権利を肯定すれば、反すると解する余地もある。この点については指摘にとどめる。

*13:もっとも、このような「著作権」概念の自殺の許否についてはさらに検討が必要であろう。

*14:東京高判平成6年10月27日知財集26巻3号1151頁「THE WALL STREET JOURNAL控訴審判決」。他に、東京地判平成7年12月18日知財集27巻4号787頁「ラストメッセージin最終号事件」、東京地判平成13年12月25日知財集27巻4号787頁。

*15:阿部「日本著作権法とフェア・ユースの理論」2頁。

*16:佐藤『憲法』575頁参照。

*17:佐藤『憲法』571頁。

*18:佐藤『憲法』572頁、高見『憲法I』449-450頁参照。

*19:高見『憲法I』450頁。

*20:岡本『インターネット時代の著作権』90頁は、著作権の権利制限規定を「著作権の中の土地収用法的部分」とするが、単に財産権を制約する規定という意味にすぎず、補償を要するという趣旨ではないものと思われる。

*21:佐藤『憲法』371頁参照。